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天然記念物への道②~幻の越の犬と岩手犬


犬の群れ

羊の群れ

魚の群れ

「♪北へ向かう人の群れは」

と日本語で書くと全部”群れ”になりますが、英語では犬やオオカミなどイヌ科の動物の群れは『pack』

草食動物でも羊は『flock』

牛は『head』

魚は『school』と区別しています。

(ちなみに人の群れはgroupとかcrowdも使うみたいです)

よく犬の群れはオオカミの群れと比較されますが、犬は家畜化の過程で群れの構造が変化しました。

基本的にイヌ科の群れは、繁殖・子育てに必要な社会行動で、血縁家族のみで構成されます。

両親が絶対的な群れのトップで、前年生まれた兄弟が、赤ちゃんの世話を手伝うこともあります。

オオカミなどは今もそのような構造を維持していますが、高度に家畜化した犬は大きく変化しています。

犬は繁殖に必要な相手も、子育てに必要な安全な寝床や餌も、人間に手伝わせる?!ことで本来の群れの構造が薄まりました。

繁殖は群れのトップである両親のみ。

兄弟は子育てを手伝う・・・といったルールは不必要になってきたのです。

違う角度から見れば、人間が群れの一員になったとも言えます。

それだけに人間の手が入らないと繁殖・血統維持が難しくなっているとも言えます。

天然記念物の指定に向けた調査が入った時、秋田犬の「交雑が甚だしい」という結果は、大きな衝撃を持って受け止められました。

日本犬を指定するための調査でしたが、交雑が進んでいたのは洋犬も同じで、犬種の成り立ちを深く理解する愛犬家たちは、各犬種保存のために次々と愛犬団体が設立されました。

中央畜犬協会(大正7年)

秋田犬保存会(昭和2年)

日本犬保存会(昭和3年)

日本シェパード犬研究会(昭和3年)

甲斐犬愛護会(昭和6年)

土佐犬普及会(昭和7年)

日本テリア倶楽部(昭和7年)

東京ワイヤーフォックステリア倶楽部(昭和8年)

※横綱をつけた姿で有名な土佐闘犬とは違います。後に四国犬として天然記念物に指定された犬種です。

ざっと挙げたこれを見ただけでも、日本犬のためだけの動きではなかったことが分かります。

犬種の保存は、人間の責任だと考えられていたのです。

富山城

この努力が実り、秋田犬は昭和6年。

甲斐犬は昭和9年1月。

紀州犬も同じく昭和9年5月。

そして同年12月に越の犬(こしのいぬ)が指定されました。

(ちなみに柴犬は昭和11年。四国犬は昭和12年6月。12月に北海道犬)

天然記念物に指定された日本犬のうち、この越の犬だけは先の大戦期に絶滅しています。

ネットで検索すれば、写真は見られますが、柴犬とも秋田犬とも違う、でも日本犬らしい特徴を持っていました。

体重は15㎏くらいだったそうです。

その名の通り、越前・越中・越後地域にいた犬ですが、わずかに残った血統から復活させようという動きもあるようです。

一方かつての秋田犬のように「交雑が進んでいる」との理由で、天然記念物に指定されなかった犬に岩手犬がいます。

(他にも山形・福島地域にいた高安犬や群馬犬も指定されませんでした)

岩手犬は、その昔”南部犬”と呼ばれ、秋田犬と同様マタギと共に狩をしていた犬です。

秋田犬のような闘犬気質は、持っていなかったと言われています。

(いかんせん残っている資料が少ないので、なんとも言えませんが)

戦国時代から南部藩(現在の岩手県~青森県東部)と言えば馬や猟犬の優れた産地であることは有名でした。

(各藩の資料に出てきます)

馬は競馬のサラブレットでも分かるように、血統の管理や調教が重要です。

南部駒と呼ばれたその馬は、特に俊足で大名たちの憧れの的でした。

そして馬とセットで幕府にも献上されていたのが、猟犬です。

馬の繁殖と調教の技術が高かったことを考えると、犬に対しても同様のノウハウを独自に積み上げていたとしても不思議ではありません。

青森県内で開催されるやぶさめ

戦のなくなった江戸時代。

南部藩は将軍家だけでなく、尾張や紀州の徳川家にも馬とセットで献上していたようですが、ある時献上した犬が岩手まで帰ってきてしまったという逸話があります。

南部藩は大慌てで謝罪に訪れたそうですが、

「育ててくれた人物がよほど恋しかったのであろう。そのまま故郷で過ごさせてやるように」

との言葉を賜り、一同安堵したそうです。

このように当時の有力者に多く献上されているので、その姿は絵で残されていると思われます。

日本犬の犬種固定のやり方は『昔のままの姿を保存すること』でした。

この南部犬も歴史上の文献から、復活してくれないかなあ・・と密かに願っています。

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