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天然記念物への道①~日本犬誕生


きりっとした顔立ち、立耳、巻尾に代表される日本犬。

今やヨーロッパでも大人気の日本犬(北海道犬・秋田犬・柴犬・甲斐犬・紀州犬・四国犬)は天然記念物に指定されています。

そもそも”天然記念物”とは『史蹟名勝天然記念物保存法』(1919年4月公布・同年6月施行)の中に”動物”という細目があり、日本犬は”日本に特有なる蓄養動物”に指定されました。

ちなみにこの項目の中には、秋田県の比内地鶏や山口県萩市に残る在来種・見島牛(みしまうし)なども指定されています。

在来牛と言えばもう一種、鹿児島県トカラ列島の口之島に生息している口之島牛(くちのしまうし)も残っていますが、こちらはなぜか天然記念物に指定されていません。

(野生化して残っているのも、かなり遺伝的に貴重な要素なのですが・・余談ですが、よく歴史の教科書に、平安貴族を乗せた牛車の絵が載っていますね。あの平安絵巻に出てくる牛が、口之島牛だと言われています)

この法律は、1949年1月に発生した法隆寺金堂の火災をきかっけに、より文化財を総合的に保護する目的で、現在の『文化財保護法』(1950年8月施行)になりました。

法律の看板こそ変わりましたが、文化財保護法の第109条~133条に、ほぼ『史蹟名勝天然記念物保存法』が残りました。

こうして日本犬は今も天然記念物なのです。

明治に入り、”文明開化”の名の下、服装や食事など私たちの日常生活だけでなく、鉄道が通ったり、工場の建設が進んだりと社会全体に西洋化の波がやってきました。

もちろんこの変化は、生活を便利にしたり労働者の負担軽減という良い面もあったのは間違いないですが、地域の自然や文化財が脅かされることも増えました。

いつの時代も、急速な変化というのは、何かを見落とす可能性が高いことは、歴史からも学べます。

いわゆる「イケイケ、ドンドン」の風潮は、活気があって人々も希望に満ちているのですが、その勢いは時に重要な物事を切り捨ててしまう危険があります。

犬は放し飼いが一般的だったため、交雑が進み

「このままでは日本犬の保存が危機的だ!」

と問題提起したのが渡瀬庄太郎教授(東京帝国大学理学部動物学教室)でした。

明治30年頃に、セッターやポインターはすでに国内にいたようですが、渡瀬教授が危機感を促したのが大正4年。

彼は、法律の成立に尽力した一人でしたが、法律が施行されると調査委員に就き、早速内務省の役人と共に秋田県大館へ出向きました。

まずは秋田犬を調査したのですが、この時点(大正9年)ですでに

「雑種化が甚だしい」

との結果で、天然記念物指定は見送りとなりました。

伝説の秋田犬ハチ公

そもそも日本犬の犬種固定には、洋犬と決定的に違うことがあります。

洋犬は、基本的にその役目にあった要素を強め、犬種を固定していきます。

例えば警察犬でお馴染みのシェパードは牧羊犬からスタートしてますが、オオカミの容貌を残しつつ、人の指示に的確に従う能力や性格を残してきました。

またダックスフントなら、アナグマ狩りに適応するようあの胴長短足スタイルになったし、シュナウザーならネズミなどの小動物の追立に高い声で吠え、万が一反撃されても顔回りを守るためにヒゲや眉毛(?!)を残してトリミングするのが伝統です。

シェパードはともかく、ペットとして飼育されるようになっても、犬種ごとの性格や能力は強く残っています。

しかし日本犬というのは、狩のお供や番犬など洋犬と同じような使役を担ってきたにも関わらず、『昔のままの姿を保存する』ことで犬種を作り出してきました。

使役内容に合わせて体の大きさや性格を固定していくことをしません。

日本犬標準なるものが制定されたのは昭和9年ですが、その頃の『姿』を忠実に残していくことが日本犬保存の基本です。

性格や使役能力というのは含まれていません。

当時の関係者の議論は、残された資料からある程度伺えますが、初めて『天然記念物』という言葉を使ったドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトの書籍やその思想から発展して設立されたプロイセン天然記念物保護管理研究所(1906年)の影響も感じられます。

遺伝子の存在が証明されていなかった時代、『姿形を基準に継承させる』という手法は、古典的とはいえかなり確度の良い方法だと思います。

その手法の差は、どちらが良いという話ではなく、お国柄の差と感じます。

多様な姿を認めるも、仕事は専門化させる西欧。

一方姿に同一性を求めるものの、性格や能力の多様性を認める日本。

犬を通して見える非常に興味深い国民性の違いです。

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