良い気候になりました。
ワンコとお出かけも楽しい季節ですね。
お陰様で、当ブログも200回目を迎えることができました。
必ずしも皆様のお役に立てる話題ばかりではないかもしれませんが、これからもチマチマつぶやいていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
さてゴールデンウィークということもあり、前回(絵本の世界が大変だ!)に続いて少しお休みモードの話題をお届けします。
弊社のフードは原料も工場も青森県です。
学校の歴史の授業で
『文化は西から伝わり、東北地方は弥生時代になっても竪穴式住居に住み、狩猟・採集生活をしていた』
と習いました。
子供心に
「ま、雑誌の発売日は数日遅れだし、ドラマの放映は1か月遅れだし、生放送(笑っていいとも!)でさえ4時間遅れなんだから、そんなもんだろうね」
と妙に納得していました。
しかし平成4年(1992年)青森市三内に建設中の県営野球場から、巨大な遺跡が見つかり工事を中断。巨大な6本の柱跡を含む、遺跡が出土したことで東北地方の歴史が一変します。
すでに三塁スタンドは出来上がっており、その一帯では、畑を耕していると土器片が出ることも珍しくないため、古くから人の営みがあった地であることは認識していましたが
「歴史的に重要な遺跡?!そんなもの青森にあるわけないだろう?」
という意見があったのも確かです。
(恥ずかしながら、私もその一人です)
後で聞いたところによると、江戸時代初期(1623年)弘前藩の諸事情を記した『永禄日記』にも、この地から大量の土偶が出てきた記録があるそうです。
「それより、ようやく予算が組めて建設に着手できた野球場はどうするのだ?」
「歴史を覆すような遺跡群かもしれないのだ!これを機に東北新幹線延長の気運も高まるかも」
などと市民を二分するような大騒ぎになってしまいました。
しかし平成6年(1994年)に巨大な6本の柱跡が出土したことから、考古学界も注目。
ついに保存が決定しました。
この三内円山遺跡をきかっけに、県内各地で調査が進み、全国の縄文遺跡の1/4が北海道・北東北に集中していることが分かりました。
八戸市の是川遺跡は、縄文前期・中期の一王寺遺跡、中期の堀田遺跡、そして晩期の中居遺跡の総称で、土器だけでなく石器も数多く出土しています。
国宝の合掌土偶は、この是川縄文館で見ることができます。
同じく八戸市の蕪島からは、縄文早期の土器も出土しています。
また津軽半島の北東部、外ヶ浜町からは旧石器時代から縄文時代になる頃の、縄文草創期の太平山元(おおだいやまもと)遺跡もあります。
以前、真冬の青森へやってきた沖縄の方に「人の住む所じゃない」と言われたことがありますが(苦笑)、1万年前の青森はもっと温暖だったようです。
しかし現在のイメージが先行し、考古学の専門家ですら
『あんな寒い所で、竪穴式住居に住める訳がない。雪で埋まるだろう』
という思い込みがあったのかもしれません。
これまでの歴史では、巨大な柱を持つ建物を建設する際に必要な基礎工事≪版築工法≫は飛鳥時代~奈良時代に大陸から伝わったとされていました。
その工法は万里の長城にも使われており、国内では東大寺大仏殿や薬師寺東塔が、その工法で建てられた初期の建物だと言われています。
しかし三内丸山遺跡の6本柱の周囲は、明らかに周囲の土と違うもので固められていました。
大手ゼネコンも調査に来て、柱がコンクリートにそっくりな物質で固められていたことを見て驚嘆したと言います。
三内丸山遺跡は縄文中期~後期の遺跡ですから、少なくとも5000年前の日本に、版築工法の基礎となる手法は存在していたことになります。
そしてその頃から、犬は共に暮らしていたことが分かっています。
動物を象った土偶も数多く出土していますが、骨折痕がある老犬や仔犬の骨も、人間同様に手厚く葬られていた形跡が残っています。
縄文時代から犬は家族だったのですね。
”縄文時代”と言うと、極めて原始的な生活を思い浮かべますが、同じ大きさに揃えられたビーズ状の翡翠を連ねたネックレスやペンダント、漆塗りの器や櫛などの出土品を見ると、物質だけでなく精神的にも豊かな時代だったことが分かります。
なぜなら食糧確保に必死だったら、身だしなみや器のデザインなどを顧みる余裕などあるはずがありません。
そんな時代ですから、犬たちの生活も、実は今とあまり変わらない距離感だったような気がします。
もし青森へお越しの際は、県内各地の縄文遺跡にも是非お立ち寄りくださいね!