晩年、野菜や花作りを楽しむ武田佐吉
青森県三戸郡南部町から、太子食品の工藤栄次郎氏や一男氏が、たびたび佐吉・信太郎を訪ねてきました。
納豆づくりのことはもちろん、納豆産業が今後発展するために必要な組合作りなど、話題は多岐に渡りました。
このような時間は、双方にとって多くの刺激となったことは間違いありません。
その頃もう一つ、納豆が産業として発展するためのノウハウの確立に寄与した業者がいました。
それは
1921年(大正10年)岩手県盛岡市で創業した丸勘商店です。
丸勘商店は、今で言う”産学共同研究”による商品開発を実現した国内初めてのケースです。
盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の村松 舜祐教授と、同大 成瀬 金太郎助教授の共著『最新納豆製造法』(初版昭和12年10月)は、まさにそのノウハウ書であり、書籍内に掲載されている写真は、丸勘商店の納豆づくりの様子です。
生産量が増えても、安定した品質・味を保つ技術や管理法は、来る戦後の高度成長期を支え、大量生産を可能にする基礎となりました。
この功績に、丸勘商店は”岩手の雄”とも呼ばれ、多くの方に愛されました。
武田佐吉・信太郎親子と村松教授が、親密な付き合いがあったことは、3人で収まる写真からも伺えますが、同時に丸勘商店の村上氏とも親しい交際があったようです。
後年、信太郎の長女・智恵子は、丸勘商店の村上家へ嫁ぎます。
そして智恵子は早逝した夫に代わり、二人の子供を育てながら、最新技術を導入した工場を稼働させたり、豆乳飲料の開発などその時代に合った健康ブームも敏感に捉え、昭和後期~平成の丸勘商店を支えました。
盛岡名物冷麺・じゃじゃ麺などの製造も手がけ新たなファンの獲得にも成功しました。一方で、丸勘商店の原点である納豆も大豆栽培から見直し、製造環境向上を目指して八幡平市への工場移転も成し遂げました。
(奇しくも丸勘商店は、大量生産による大手の低価格競争の波についていけず、取引先が減少。その最中の2011年3月東日本大震災による休業と生産規模の縮小が追い打ちとなり、2013年12月業績不振により92年の歴史に幕を下ろしました)
こうして次々と納豆が産業として発展していく中、今も触れることのできる信太郎の功績として、ひきわり納豆があります。
当時から、ひきわり納豆はあったのですが、石臼で大豆を挽きやすくするために、一度炒っていました。
そのため現在のひきわり納豆に比べると、色が黒く、独特の風味があるため、万人受けする味とは言えませんでした。(納豆はただでさえ万人受けする味とは言えないのに・・)
そこで信太郎は色々研究していたところ、生大豆を簡単に砕くことができる農業機械を見つけました。
この機械を利用して、1956年(昭和31年)に現在のようなひきわり納豆が完成しました。
丸粒の生大豆から、砕いた生大豆にしただけじゃないかと思われるでしょうが、砕くことで大豆の皮が取れ、大豆の表面積も増えるので、発酵管理にはこれまでと違った技術が必要でした。
そのため製造特許の申請も考えていたようですが、弁護士から「特許管理は困難」との助言があり断念しました。
その後、子供からお年寄りまで食べやすく、納豆汁や海苔巻き、また多くの食材と合わせやすいひきわり納豆は、多くの業者が製造を始めました。
しかし他社が、信太郎の作るひきわり納豆の味に近づくのに10年~15年もかかったことを考えると、かなり難しい管理が必要であったことが伺えます。
その頃佐吉は、ある日二代目信太郎にすべてを任せ、隠居生活を楽しむようになります。
それなりの年齢でしたから、病気をした・・とか年齢的にきつくなってきた・・というのも全くなかったわけでもないでしょう。しかしせっせと畑を耕したり、手間のかかる花卉を育てたりしていたので、さほど大きな障害となるきっかけはなかったように見えます。
まさに突然納豆製造を始めた時と同じように、”本人にしか分からないタイミング”だったようです。